■Shadow of the Necropolis - Road to Damnation Vol.I -
「幾週間もの準備と儀式を必要とする繊細な魔術の研究の最中だというのに、このような嫌がらせとはな」

 Kel'Thuzad が慇懃な来訪者と対面するために待ってより、既に数時間が経っていた。一団の交渉役となっているDrendenとModeraは長い間 Kel'Thuzadを批判していたにもかかわらず、Antonidasの助力なしては最も最近の捜査に着手することすらなかっただろう。 Antonidasは未だ姿を見せず、そして彼は何をしようとしているのだろうか?

「君の扱う魔術が『繊細』だとは、初めて耳にするな」
「──無知なる故の無知なる言葉だな」

 Drendenが鼻を小さく鳴らして云った言葉に、Kel'Thuzadが冷たく応えた。

 と、ふと遠くからの声がKel'Thuzadに届いた。その言葉は親しみを持ち、自身の考えであるかのように心に響いた。

──彼は君を恐れ、妬んでいるのだ。結局の所新たな道行によって、君は知識を力とを得続けているのだから

 突如の光芒が部屋を満たし、僅かに顔をしかめたArchmageがホールに現れた。彼は小さな木製の箱を腕の下に押し込むと、口を開いた。

「我が目で見ていなければ、それを信じることなどできなかったろうな。Kel'Thuzad、君は最後に我らの寛容と忍耐とに悪意にて報いたな」
「徳高きAntonidas、我らはついに君との邂逅の栄誉に与かれるのか。私は君が病に倒れたのではないかと思ったよ」
「そんなことを思うのは、老齢のせいかね?」

 Antonidasは指を鳴らした。

「Kel'Thuzad、君は自分に代わる唯一の存在が居ることが判っているのだよ」

──それで彼の矜持が保てるのなら、そう思わせておくがいい

 幾分静まって、Antodnidasが再び口を開いた。

「私の健康について、君に心配して貰う必要性は全くなかった。単に忙しかったのだ」
「私の研究室で、禁じられた魔術の証拠でも探していたのかな? 君はよく知っているというのに」
「君の研究室にはそのような証拠なぞ、なにひとつとして無かったよ。だが、Northrendの方は……」

 Antonidasは、Kel'Thuzadに嫌悪の念を抱かせる一瞥をあたえた。

「己の欲望を満たすための研究に対して罰を与えねばならぬ」
「お前にそのような権利など──」

 Antonidasは杖の石突で床を叩くと、Kel'Thuzadを『沈黙』させた。そして、他のMageの方に向き直った。

「Kel'Thuzadは悪しき研究のためにこの建物を研究所とした。己の目で彼の研究成果を見よ」

 Antonidasは箱を取り出すと、全ての者が目にすることができるようそれを傾けた。

 その中には腐敗した数匹の鼠の死体があり、その中の二匹は箱から逃れようとしてか壁面に爪を立てていた。数人のMageがうずくまり、吐き気を飲み込んだ。部屋の背後に居たPrince Kael'Thasはほとんど不可能と思われた偉業を打ち立てた人物であったが、そんな彼ですら衝撃を受けているようだった。

 箱に捕らわれた鼠の方にKel'Thuzadが向き直ると、既に鼠は倒れて動かなくなっていた。それが失敗作であることは明らかであった。だが、 Kel'Thuzadにとっては問題とならなかった。いつの日か、安定したUndeadを生み出し、己の努力は正当化されるだろう。あとは、単に時間の問題に過ぎない。

──君を『沈黙』させた呪文は杜撰なものだ。どのように解けばいいのか、教えるべきだろうか?

教えよ!

 Kel'Thuzadの思いに応え、未知の同盟者のその声は彼を手助けした。

 若い女性が光芒と共に現れた。彼女はAntonidasのそばに歩んでいくと、Kel'Thasの視線は不安と静かな苛烈さとを含んでそれを追った。彼女 ──Jaina Proudmooreは自分のすべきことに集中しており、Kael'Thasの視線には全く気づいていなかった。美貌の王子の期待はなにも実らなかった。

 Jaina Proudmooreの生き生きとした青い瞳が、Kel'Thuzadに一瞥を与えた。

「我が徒弟が、この箱と中身とが焼却されることを確実なものとするだろう」

 Antonidasがそう説明し、箱をJainaに手渡した。

 Jaina はひとつ頭を下げると、再び部屋からテレポートして立ち去った。Kael'ThasJainaが立ち去った場所を見て不機嫌そうに眉を顰めた。他の状況下であれば、Kel'Thuzadはこの無言劇を心楽しんだだろう。しかし、Kel'Thuzadは問題視されないままに放置され、Antonidasは告発の演説を長々と続けていた。無言のまま、Kel'Thuzadは己の自由を回復するための努力を再開した。

「我らは充分に長きに渡って寛容に振舞った。Kel'Thuzad、彼の奇怪な探求に対して正しき助言を与え、彼を導こうとした。今、彼が邪悪な魔術を探求していたことは明白である。すぐさまthe Kirin Torの名が領民の口の端に上る時には呪いと同義となるであろう」
「何たる虚言!」

 Kel'Thuzadが叫んだ。少数のMageが続く言葉を待った。

「領民たちは我々と同じくらい第二次戦争のことを覚えているだろう。Orcについて、覚えていることを云ってみよ。彼らのWarlockは巨大な力を行使した。それに対して、我らは僅かな防御能力しか持ち得なかった。我々には義務があるのだ。我らは敵の魔術を学び、そしてそれに対する方法を理解しなくてはならないのだ」
「……死んだ鼠の軍団を作り上げるためにも、この不自然な存在が重要だというのかね?」

 Antonidasは皮肉気に問うた。

「いいだろう、若輩者よ。私は君の研究記録を発見した。君はこの忌まわしい研究について、非常に詳細な記録を残してあった。そもそもOrcたちに対してこのおぞましい生物を使う予定があるとは云えないだろう。そもそもOrcが現在の無気力から復帰し、収容所から逃れ、再び脅威になることに成功すると仮定しなくてはな」
「君よりも若いことが資格無きことではない。鼠は私の進歩の度合いを測るための物差しでしかない。それは、一般的な技法のひとつに過ぎない」

 Kel'Thuzadの返答に、Antonidasはため息をついた。

「君が北の地で大部分の時間を過ごしていることを知っている。君の不在は私に不審を抱かせた。この地に殆どいなかった君ですら、王が行った新たな税金が市民の不安を増したと耳にしたことくらいはあるだろう。君の利己的な力の探求は、市民の反感を刺激するのだよ。それが爆発したとしたら、Lordaeronな内戦に包まれることだろう」

 Kel'Thuzadは税金については初耳であった。Antonidasは誇張して云っているのだろう。そして、その上でより大きな問題へと話を持っていくに違いない。

「私は更に多くのことを考えに入れているのだ」

 Kel'Thuzadは歯を食いしばった。

「どんなに慎重に振舞っても、大きすぎる秘密は隠せなかったということだ」

 Drendenが口を開き、Moderaがその後を続けた。

「私たちが領民にとっての脅威とならず、常に領民を守るために日のあたる道を歩いていることを、あなたは知っていた筈なのに。私たちは自らの道徳に背きはしない。外観を取り繕ったりもしない。よく見ても、あなたのやったことは異端として非難されるべきことでしょう」
「私たちは何世紀にも渡って異端者とされた。聖職にある者たちは、一度として我らの扱う魔術を快く思ったことなどなかろう。それでもなお、我らはここにいるのだ」

 Moreraが頷いた。

「それは、闇の魔術に手をださないからこそでしょう。闇の魔術は堕落と破滅への導き手なのですから」
「我らは必要であるが故に在り続けなくてはならない」
「もう、充分だ」

 AntonidasがDrendenとModeraの声を遮り、更にひとこと付け加えた。

「言葉が彼に届いたとしたら、このような事態にはならなかった」
「君の言葉は聞いたよ」

 Kel'Thuzadが苛立ちを抑えきれぬ声で云った。

「ああ、聞いたとも。慈悲深き神々よ! 私は厭きるほど奴らの主張を聞いてやったぞ! 私の言葉を聞かないのは貴様らではないか! 時代遅れの義務に──」
「君は我らの目的を勘違いしているな」

 AntonidasがKel'Thuzadを遮った。

「討論をしようというわけではないのだよ。今も君の所有物はひとつ残らず調査されている。闇の魔術によって汚された一切が没収され、我らが償うべきことと破壊したものとが明らかにされるだろう」

 彼の名もなき同盟者は、このような事態が起きるであろうことを既に警告していた。しかし、Kel'Thuzadはまだそれを信じきれていなかった。奇妙なことに、Kel'Thuzadは事ここに至ったことに、安堵を感じていた。秘密裏の活動は行動を制限され、更なる段階への発展を妨げてすらいたのだ。

「証拠のもとに、Terenas王の判断は我らと意見を同じくした。君がこの狂気を続けるというのなら、階梯と権利を剥奪し、Dalaranから──Lordaeronの全てを含む地から追放される」

 Antonidasが重々しく云った。

 Kel'Thuzad の心は決まっていた。彼はひとつお辞儀をすると、ホールから立ち去った。the Kirin TorがKel'Thuzadの不名誉な行為を明らかにすることで起こる事態を恐れ、沈黙を守ることは疑い得なかった。the Kirin Torのそんな臆病さは、Kel'Thuzadにとっての利点であった。没収されたKel'Thuzadの富が、けして王の金庫に納められることがないこともまた、確かなことだった。

 †† †† ††

 狼の一団が呪文の範囲外からKel'Thuzadに忍び寄った。狼たちは、以前にKel'Thuzadに窘められていた。Kel'Thuzadが肩越しに振り返ると、狼は歯を剥き出して唸った。だが狼たちはそのまま動くことなく耳を垂れた。幸いなことに、極寒の風がおさまり始めていた。寒々とした山頂を眺められる距離に立ち、Kel'Thuzadに勝利の感覚と予兆を与えてくれたに違いない光景を眺めた──Icecrownの鋭鋒、探検家たちが冒険に挑み、少数のみが生き残って帰ってきたその氷河を。Kel'Thuzad はそこへと登り、世界を見下ろそうとしていた。

 だが、不幸にもNorthrendの凍てつく大陸の地図は殆ど存在していなった。加えて万端に行った筈の準備がこのような状況では不適切なものであったことに気づいた。進むべき道も定かではなく、最終目的地についても確かではなかったため、テレポートを行うことができなかったのだ。Kel'Thuzadはたたらを踏んだ。既にどれ程長い時間歩いていたかすら定かではなかった。毛皮の外套を着込んでいるにも関わらず、体は芯から冷え震えていた。足の動きはぎこちなく、感覚がなくなっていた。まるで足が石へと変わったかのようですらあった。 Kel'Thuzadは倒れようとしていた。もしも避難場所を発見できなかったとしたら、間違いなくここで死んでいたことだろう。

 と、光芒がKel'Thuzadの注意を惹いた。それは魔法のシンボルで彫刻された石柱であり、その先には要塞があった。Kel'Thuzadは石柱を越えて急ぎ、純粋なエネルギーのようにも見える橋を渡った。要塞の入り口は簡単に開いた。しかし、Kel'Thuzadはそこで立ち止まった。

 要塞の門は腰から下が巨大な蜘蛛のような二体の奇怪な生物によって護られていた。六本の足が生き物を地面に立たせ、人間に似た腰の辺りに二本の肢が腕のようについていた。体には幾つもの傷が組み合わさっており、乱暴に包帯が巻かれていた。一体の見張りの腕はありえない角度に曲がっており、牙の生えた顎から涎を滴らせているにも関わらず、拭おうとすらしていなかった。

 死せざる者特有の匂いが立ち込めていたが、同じく死せざる者として Kel'Thuzadが作り出した鼠と異なり、この見張りたちは整然としていた。蜘蛛を思わせるこの生物は、元の強さと協調性の大部分を死せざる者となって尚残しているようだった。さもなければ、もっと愚かな見張りであったろう。明らかに、これらの創造主は熟練したNecromancerに間違いなかった。

 驚くべきことに、死せざる見張りはKel'Thuzadを通すかのように移動した。Kel'Thuzadは幸運を疑うことなく喜んで要塞へと侵入した。要塞は際立って暖かかった。回廊には下半身が蜘蛛の生物の彫像が叩き壊されていた。建物自体は最近作られたもののようであったが、彫像自体は極めて古いもののようだった。思い起こせば、Kel'Thuzadが北の地を踏破しようとしている間にも、同じような彫像を目にしていた。寒さが理解力を低下させていたようであった。

 推測する所、Necromancerはこの蜘蛛のような生物の王国を征服し、彼らを死せざる者へと変貌させ戦争の戦利品としたのであろう。歓喜がKel'Thuzadを満たした。ここで偉大なる知識を得られるに違いないと。

 大広間の最後に、甲虫と蜘蛛の奇怪な融合体を思わせる巨大な生物が動いた。それはゆっくりとKel'Thuzadへと近づいてきた。彼はそれを観察し、巨大な体は傷跡と包帯を幾重にもまとっていることに気づいた。見張りと同様にそれは死せざる者に違いなかった。しかし、その巨体はKel'Thuzadの恐怖を呼び起こすのに充分だった。彼自身の技量では、到底このような巨大な死から蘇ったモンスターを征することはできないと判っていた。

 Kel'Thuzadの考えとは裏腹に、その生物は彼を歓迎する言葉を低い声で話した。完全に理解できる完璧な言葉を話したが、Kel'Thuzadの背筋は冷え切っていた。

「Archmageよ、我が主はお前が来ることを予期していた。我はAnub'arak」

 驚くべきことに、Anub'arakと名乗ったそれは、知性と意思とを持ち合わせていた。

「は、はい。私はその方に師事したいのです」

 巨大な生物はKel'Thuzadを見下ろした。もしかしたら、Anub'arakは軽食を作るべきかどうか、そんなことを考えているのかも知れなかった。

 Kel'Thuzadは唾を飲み下した。

「その方に逢えるでしょうか?」

「時、至れば。これまでは、おぬしは知識の探求に己を捧げていた。賞賛に値する目的だ。だが、Mageとしての積んだ経験だけでは、我が主に仕えるには足りぬ」

 何故このようなことを云うのだろうか? このAnub'arakと名乗った代弁者は、Kel'Thuzadをライバル視しているとでも云うのだろうか? それは早く訂正せねばならなかった。

「the Kirin Torの一員であった私は、あなたが想像しているよりも更に多くの魔術を扱えます。主たるその方にお使えするための、どのような命令であろうとも果たす準備ができております」

「先ずは見せるべきであろうな」



■Shadow of the Necropolis - Road to Damnation Vol.II -
 Anub'arak は地面の遥か下にある無数のトンネルを通ってKel'Thuzadを先導した。Kel'Thuzadが導かれて辿り着いたのは、Anub'arakが云う所、Naxxramasという名の巨大なジグラットであった。その建築物の一部は半蜘蛛の生物によって作られていた。Anub'arakに見せられた最初の部屋は、Undeadが多く存在していた。そのため、Undeadに対するもの珍しさは急速に失われていった。本物の蜘蛛が忙しく巣をつくっては卵を産み、Undeadたちの間を蠢いていた。

 Kel'Thuzadは嫌悪感を感じていたが、それはこの巨大な執事たるAnub'arakに不満を抱かせるであろうから、ひた隠していた。Undeadの蜘蛛の一体を指し示し、Kel'Thuzadは問い掛けた。

「あの者たちとあなたとには若干類似性が見られますが、同じ種族なのでしょうか?」
「左様。かつて我らはthe Nerubian種族であった。そして、主たるあの方が来られた。主たるあの方の版図が広がるにつれ、我々は愚かにも主たるあの方との戦端を開いた。多くのthe Nerubianが殺され、死せざる者へと昇華した。命ある間、我は王であった。今我はthe Crypt Lordとして君臨しておる」
「不滅の代償として、主たるその方に仕えたということか」

 Kel'thuzadが声に出して考え込んだ。注目に値する出来事だった。

「『了承』以外に選択の余地などないのだよ」

 それは、NecromancerがUndeadからの服従を強制できるということであった。即ち、Kel'Thuzadが望んでここに来た最初の生ける者であるかも知れなかった。僅かに狼狽し、話題を変えた。

「この場所はあなたの同胞たる者たちが多く居る。あなたがここを支配することは至極当然のことでしょう」
「我が死後、新たな主となったあの方のために、同胞を率いてこのジグラットを征服した。そしてこのジグラットを変貌させ変化させた。だがNaxxramanasは我が全権限を得ているわけではない。ここは四区画の内のひとつでしかないのだ」
「墳墓の主(the Crypt Lord)たる御方よ、私に他の区画を見せていただきたい」

 †† †† ††

 第二区画はKel'Thuzadの望むもの全てであった。魔法のアーティファクト、試験装置、Kel'Thuzadがかつて持っていた研究室すら恥ずかしく思える程の様々な品々。実験の補助役の者たちが居る巨大な部屋。動物の死体を寄せ集め縫い合わされたUndeadの獣。様々な人間の体から構成された Undeadの人間さえ存在していた。the Nerubianと異なり、人間の死体には怪我が見られなかった。おそらく、Necromancerは墓地から死体を得たのであろう。 Kel'Thuzadにはできないことだった。そのような注目を惹く方法をとったとしたら、the Kirin Torは即時に行動していただろうから。

 残念ながら、第三区画はそれ程興味を惹くものではなかった。Anub'arakは戦闘訓練のための場所と兵器庫とを案内した。次に、何百──いや、何千もの封をされた樽と運搬用の箱とで満たされた部屋を抜けて案内を続けた。何故Naxxramanasはそれ程多くの物資を必要とするのだろうか? ピラミッドが包囲されるというありえそうもない出来事のために用意されているらしかった。

 最後の区画は巨大なキノコが庭園に生えており、 Kel'Thuzadが手で触ると有害なガスを吐き出した。それらのキノコが生えている土壌は穢れており、おそらく病んでいるようであった。よく確認しようとKel'Thuzadが近づくと、何かを踏み潰した感触を足元に感じた。それは、蛆虫に似た握りこぶし大の生物だった。

 Kel'Thuzadは身震いすると、慌てて先へと進んだ。次の部屋は緑がかった液体で満たされた大ガマが並んでいた。実に嫌な匂いが立ち上っていたが、Kel'Thuzadは興味から近づいた。しかし、巨大な鍵爪がその進路を塞いだ。

「主たる御方は、おぬしが生きたままで居ることを望んでいる。まだその時ではない」

 Kel'Thuzadは息を呑んだ。

「あの液体は、私を殺すことになると?」
「生ける者の中には主たる御方に仕えない者たちが多く存在する。この液体がそれを解決してくれるのだ」

 呆然とするKel'Thuzadに、the Crypt Lordが先を促した。

「来たまえ。おぬしに見せてやろう」

 Anub'arak はKel'Thuzadを二人の囚人を捕らえた小部屋へと案内した。男性と女性の囚人は何処かの村人のようだった。男性は腕に女性を抱えて宥めていた。抱えられた女性は死人のように青白く、汗で濡れていた。女性は明らかに何らかの病気に罹っているようだったが、ともあれ二人とも生きてはいるようだった。 Kel'Thuzadは不安げにthe Crypt Lordの様子を伺った。

 捕らえられた女性はKel'Thuzadを見ると、らんと輝いた。

「お慈悲を! 私はもう駄目です。その次に何が起こるのかもわかっております。お願いです、私を焼き尽くして下さい! 私に安息を!」

 女性はNecromancerの奴隷となることを恐れていた。Anub'arakに云わせると、彼女に選択肢など無いとの事だった。Kel'Thuzadは気分が悪くなり目を伏せた。結局、彼女がそれ程長い間生きられるわけではないということだ。
 女性は男の腕の中から離れると、独房の格子にすがりついた。

「お願いです! 私は無理でも、せめて夫を助けてください!」

 女性は絶望して泣いた。背後から男が女性にささやきかけた。

「それ以上云うな。お前一人残しはしない」
「彼女を黙らせろ!」

 Kel'ThuzadはAnub'arakに訴えた。

「このような雑音がおぬしを苦しめるのか?」

 迅雷の動きでAnub'arakは鍵爪を突き出し、女性を串刺した。死体となったそれを、鍵爪を軽く振ると地面に落とした。

 夫である男は苦しみから呻いた。やましさの源が取り除かれてKel'Thuzadはその場を離れようとしたが、女性の死体がのたうち回り始めたことで歩みを止めた。男は呆然として黙り込んだ。

 死んだ女性の皮膚は薄い緑がかった灰色へと変色していた。次第に痙攣がおさまり、揺れながら立ち上がった。頭を巡らせ、夫である男を見つけると体を震わせた。

「衛兵よ、この男を拘束しろ」

 女性であったそれは、しゃがれた声で叫んだ。だが、衛兵はそれに従わなかった。女性は唸り声を上げ、指で自らの髪の毛をつかんだ。そのため、Kel'Thuzadは女性の顔を直視できた。血管は皮膚の下で黒ずみ、目は禍々しい狂気の光を宿していた。

 女性の夫であった男が信じられぬ面持ちで問いかけた。

「どうしたんだ? なにが起こった?」

 男が女性に近づくのを躊躇すると、苦痛に満ちた笑いが女性の唸り声に重なった。

「近づくな」

 男は女性の言葉を無視して近づいたが、女性は近づいた男を突き飛ばした。突き飛ばされた男は背をしたたかに打ち付けて気絶した。

「動くんじゃない」

 女性の声はいっそう喉にくぐもったものへと変わっていった。

「お前を傷つけてしまう」

 女性は自分の腕で自身をかき抱き、背中が反対側の壁にぶつかるまで後ずさった。

「お前を傷つけてしまう」

 女性が哀れみを誘う声で云った。だが言葉とは裏腹に、女性は徐々に邪悪さに包み込まれ始めていた。Kel'Thuzadはよくわかっておらず、女性に視線を向けた。女性は胸に空いた穴に手を添えるとその空洞をなぞり、体液で濡れた指をゆっくりと舐め吸った。次の瞬間女性は夫であった男に歯を剥いて襲い掛かった。

 男は叫び声を上げ、その血は小部屋の床をしとどに濡らした。Kel'Thuzadはたじろぎながらも距離をあけ、その凄惨な光景から目を背けた。だが、耳からは口に出すのもおぞましい音が聞こえ、絶えることはなかった。引き裂き、寸断し、噛み砕く音が。女性は自身がどのような行動を取るのかを判っており恐れていたが、だがそれでも尚彼女は自身を止めることができなかった、その結果がこれだった。

 Kel'Thuzad は気分が悪くなり、ぞっとし、Naxxramasから手レポートすると嘔吐した。そして穢れのない雪をすくい上げると、口と顔とにこすりつけて洗った。最早清浄なるものには戻れないかのように感じられた。一体自身は何に巻き込まれたというのだろうか?

 様々な考えをひとつひとつ検討し、やがてひとつの考えへとまとまった。Necromancerは単なる研究者ではなく、広く禁忌とされた魔術の研鑽に興味を持っている。彼は攻撃に対する備えを常にし続けている。彼は人々をゾンビへと変える液体を大量生産している。Naxxramasは大量の備蓄品、武器、鎧が準備され、訓練場などの設備が設けられている……。

 これらは防衛のためのものとは考えられなかった。戦争の準備に他ならなかった。

 金切り声を含んだ突風がKel'Thuzadへと吹き付けると、Cold Wraithの一団が彼の目の前に現れた。紫紺の城砦(the Violet Citadel/訳註:Dalaranにある城砦で、the Kirin Torの本拠地。第三次戦争の折り、Archimondeによって破壊された)でCold Wraithについての記述を呼んだことがあった。うすぼんやりとした半透明の姿に在る赤い眼からは、冷たい邪悪さ以外の一切を感じ取ることはできなかった。

 Wraithの一体がKel'Thuzadに近づくと声を発した。

「考え直すのか? 見ての通り、お前の詐術ではなにもできぬというのに。我が主から逃れることはできぬ。なんにせよ、お前はなにを望んでいた? 何を目的としていた? 簡単に云おう。誰がお前を信じるというのだ?」

 戦うか、逃げるか、どちらも英雄的な選択には違いなかった。英雄的ではあるが、無意味な選択に違いなかった。どちらかを選択し死んだとしても、なにも果たされることはない。Kel'ThuzadがNecromancerの徒弟になることを了承すれば、それによって時と共に自身の力を増すことができる。充分な訓練を受けることでKel'ThuzadはNecromancerを凌ぐか、彼の油断を誘えるかも知れなかった。

 Kel'ThuzadはWraithに対して頷きを返した。

「わかった。彼の元へと連れて行ってくれ」



■Shadow of the Necropolis - Road to Damnation Vol.III -
 Wraith はKel'Thuzadを要塞へとテレポートさせ、複雑な道を通ってKel'Thuzadを下層へと案内した。最後に辿り着いた場所は、地中深くにある巨大な洞窟だった。洞窟の中央には目もくらむような高い尖塔がそびえていた。尖塔の側面には登り階段がぐるりと配置されていた。

 Kel'Thuzad とWraithは階段を登り始めた。心臓は恐怖と興奮とで早鐘をうっていた。Kel'Thuzadは歩みが遅くなっていたことに気づき、小走りに急いだ。しかし、それも長くは続かなかった。重りを付けられているかのように、体が重く感じられた。Northrendの長旅がKel'Thuzadが考えていたよりも疲れさせていた。

 遥か尖塔の上方には、巨大な水晶の塊があるようだった。雪が積もっていないためか、それはぼんやりとした薄青の光を放っていた。Necromancerが居る様子は無かった。

 Wraithの一体が遅れるKel'Thuzadを急がせるためか、冷たい突風をKel'Thuzadの背に吹きかけた。苛立ちながら、Kel'Thuzadが外套を身に寄せた。呼吸が激しくなっていたが、登山を止めようとはしなかった。

 どれ程かの時間が過ぎ、霙の突風にさらされたことで再び意識が覚醒した。Kel'Thuzadは杖によりかかり、階段の真ん中でいつの間にか立ち止まっていた。空気は邪悪に満ち、押しつぶすような感覚があった。Kel'Thuzadは無意識に喘いでいた。

「ちょっと、待ってくれ」

 Kel'Thuzadが云うと、背後のWraithが応えた。

「我らは休むことが叶わぬ。なのに、何故お前が休まねばならぬのだ?」

 積み重なる極度の疲労に肩を落とし、暗澹とした気分でKel'Thuzadは再び歩み始めた。力を振り絞って頭を上げると、かすかに光る水晶が道の終わりを告げていた。闇に浮かぶそれは、この距離では王座のようにも見えた。それには、明らかに邪悪なオーラが感じられた。

 WraithがKel'Thuzadを押した。ただそれだけであったが、彼は悲鳴を上げる程に驚いた。声が大洞窟全体に反響した。Kel'Thuzadは冷たく湿った街頭を震える手で掴んだ。呼吸は喉元に絡みつき、この場から逃げたい衝動に駆られた。

「主たる御方は何処に?」

 Kel'Thuzad の声は上ずり、震えていた。応えは無く、代わりに霰の嵐がKel'Thuzadに降り注いだ。つまづきかけたものの何とか体勢を保った。促され、更に前へと歩を進めた。だが、ぼんやりとした王座は圧倒的な存在感でKel'Thuzadの頭を垂れさせようとしており、ちゃんと歩くことすら困難に感じられた。まもなく、Kel'Thuzadは手と膝を地面についた。

 Necromancerの声がKel'Thuzadに直接届いた。それは最早遠く離れた時のように、親切さは感じられなかった。

『これは最初に伝えるべきことだ。我は貴様らに対する一片の感情も持ち合わせていない。我はこの地上から生ける者全てを間違いなく滅ぼそうとしている。それだけの力が我にはある』

 Wraith はKel'Thuzadが立ち止まることを許さなかった。屈辱のままに、Kel'Thuzadは杖を捨てると這ったまま前へと進み始めた。 Necromancerの悪意はKel'Thuzadへと降り注ぎ圧倒し、雪の中へと埋もれてしまうのではないかとすら思われた。Kel'Thuzadは振るえ、泣いてすらいた。神に懇願した。Kel'Thuzadは全身を包むものがなんであるかを悟った。そして、愚かにも途方も無い間違いを犯していたことを悟った。疲労ではなかった。それは、激しい恐怖であった。
『我は眠らず、油断することもない。想像力を働かせるべきであったな。我は貴様が本を読むのと同じくらい容易く貴様の思考を読み取ることができる。我を倒すなどという希望は存在せぬ。貴様の矮小な精神は、我が気まぐれに操るエネルギーにすら対処することが出来ぬのだからな』

 Kel'Thuzadのローブは既に破れ、ズボンも荒削りな氷で覆われた岩の階段の前にはなんの役にもたっていなかった。Kel'Thuzadの手と膝は血にまみれ、進む毎に跡を残した。王座は骨まで凍えるかのように冷たく輝き、靄がそれを包んでいた。王座は水晶ではなく、氷であった。

『不滅のもたらす恩恵は計り知れぬ。それは同様に苦しみも計り知れぬ。貴様では想像もできぬであろうがな。我に反逆するがいい。さすれば、我が学びし苦痛がどのようなものであったか貴様に教えてやろう。死を嘆願する程の苦痛をな』

 Kel'Thuzadは王座の足元に伏したまま、冷酷な力と憎悪のオーラによって、ピンで留められたかのように動くことが出来なかった。不可解な力がKel'Thuzadを上から押しつぶし、彼の顔を地面に押し付けた。

「何卒、」

 Kel'Thuzadは啜り泣きながら云った。

「何卒!」

 それ以上言葉が出なかった。やがて圧力は和らぎ、Wraithは離れ去った。Kel'Thuzadはそれでも起き上がることができなかった。そうすべきか判断がつかなかった。目だけで彼を苦しめた存在を捜し求めた。

 プレートアーマーの一式が王座の中に座していた。それは、全く光を反射しない黒い鎧兜であった。もしも長い時間見ていたとしたら、それは全ての光、希望、安寧を貪り食らうかのように思われたであろう。

 意匠を施された兜は王冠の代わりのようであった。兜には青い宝石がひとつついており、残りの鎧と同様に中は空洞であった。篭手のひとつは刃にルーンを刻まれた巨大な剣を握り締めていた。

 それは力であった。

 それは絶望であった。

『我が代理人として、貴様は最も夢見たことすら凌ぐ程の知識と魔術を得ることとなる。だが見返りとして、生きていようと死んでいようと、存在在る限り我に仕えることとなろう。我を裏切れば、貴様は思考することなき存在へと墜ち、黙して我に仕えることとなろう』

 この存在──the Lich KingだとKel'Thuzadは考えた──に仕えることは、確かにKel'Thuzadに巨大な力をもたらしてくれるに違いない……そして、永遠の破滅も。だが、それは最早考えるに遅かった。加えて、真実の死の前には永遠の断罪などさしたる意味を持たなかった。

「私は主たるあなたの物です。私はそれを誓います」

 Kel'Thuzadはかすれた声で云った。

 返答として、the Lich KingはKel'ThuzadにNaxxramasの映像を送った。黒いローブを着た者たちが氷河に書かれた広い円の上に立った。闇の魔術で装飾されたその腕は上下を繰り返し、Kel'Thuzadの理解できぬ単調な歌声が響いた。彼らの足元の地面が揺らいだ。にも関わらず、彼らは詠唱を続けた。

『貴様は我が力に仕える者を集めよ。貴様は我の生ける者への代理人であり、我が計画を進めるために意見を同じくする者たちを組織せよ。幻惑、信仰、病禍、軍隊を用いてAzerothに我が支配を打ち立てよ』

 Kel'Thuzad が驚きを見せている間にも、氷は揺らぎ割れ、ジグラットの最上部が凍りついた地面から突き出した。ジグラットが土中から出現した。ローブを着た人物たちの詠唱が強まるにつれ、巨大な角錐が出現を続けた。土と氷の塊が外側に弾け飛び、ジグラットは地面から完全に解放された。ゆっくりとではあるが確かに、 Naxxramasは空中へと浮いていた。

『これが貴様の船となろう』